[円広志]パニック障害の救いは?紳助にブチ切れ!越冬つばめ作曲秘話も

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円広志さんのプロフィールはこちら

⇒ Wikipedia(円広志)

今回の記事は、3/6放送の「黄金列伝」に出演した円広志さん。

個人的な話ですが、円さんについては「顔」はすぐ出てきました。あと「お笑い系かな?」という印象もちょっと出てきました。

・・・ただ「歌手」という印象は全く出てこなかった。

自分と同じような印象をお持ちの方は、これから紹介する番組内容を読んで頂ければと(知り合いが丁寧にまとめてくれました)

デビュー曲で大ヒットしたこと、作曲のこと、紳助さんとの関係からパニック障害まで、円さんについて盛りだくさんの内容になっております。

「夢想花」で大ブレイク&「越冬つばめ」サビ誕生秘話

今回はこの番組初の芸人以外のゲスト。ただ、世間的なイメージは上方きっての「芸人」

グリーンの派手な衣装で登場したのは、円広志さん。

1978年、25歳でプロ歌手の登竜門「第16回ヤマハポピュラーソングコンテスト」で、「夢想花」でグランプリを受賞。

デビュー前年に結婚した奥さんを連れて大阪から東京へ。

デビューから半年後に、まず最初に入ってきた印税が600万だったそうです!

ただ「とんで、とんで...」のフレーズでヒットしたものの、その後が続かず、いつしか押されてしまった一発屋の烙印。

お金はあるけれど、精神的にすさみきっていた生活を送っていました。

しかし1983年、28歳で「越冬つばめ」を作曲したことで、また大きく上り詰めます。

「ひゅるり~ひゅるり~らら~」という印象的なサビで有名な森昌子さんの大ヒット曲。

「これでまた俺が越冬できるわな(笑)」

ただ、このヒット曲には驚きの誕生秘話がありました。

歌詞の「ひゅるり」から、秋祭りで太鼓と合わせるにぎやかな曲を連想してしまう円さん。

どうしてもこの部分のメロディができなかったそうです。

でも、担当者から「曲できてる?」と言われて「できました!」と言ってしまい、やけくそで夜中に何とか考え出したとか。

森昌子もインタビューで「初めて聞いた時にぶわ~っと鳥肌が立った」と言っていた「越冬つばめ」の印象的なメロディーは、実は追いつめられてようやくひねり出したものだったのです。

関西在住なので、円広志さんは昔からよくテレビで見ていました。

確かに、今やこの人に歌手のイメージはない!すっかり吉本の芸人さんだと思っていました。

しかも、下手な芸人さんより切り返しが上手い。

「越冬つばめで越冬する」というくだりも、すっかり円さんの鉄板ネタになっていますね。

それにしても、円さんの曲が「夢想花」という名前だったとは知らず、長い間「とんでとんで」だと思っていました(笑)

テレビの世界でブレイク!その陰に2人の恩人

一人目の恩人は、やしきたかじんさん。大阪の新地で出会ったそうです。

まだたかじんさんもラジオで主に活動していて、あまり知られていなかった頃。

初対面で「お前おもろいからラジオに来い」と言われたそうです。

「一番面白いんじゃないの。名前は知れてるけども売れてないからボロクソに言える。

ボロクソに言えるけれど、一応金看板は持ってる」

一度ラジオに出ると次々と違う番組にも呼ばれ、たかじんさんが番組をやめる時には後任に円さんを選んだこともあったそうです。

そしてもう一人の恩人は、島田紳助さん。いきなり手紙が来たそうです。書かれていたのが

「とんでとんでどっか行ったくせに、ニコニコ笑ってるのが気に食わん。もっと悲しく下を向いて歩け」

会ったこともない紳助さんからここまで言われ、ブチ切れた円さんは、単身紳助さんのもとに乗り込みました。

ラジオの生放送中に入っていってケンカになり、収集がつかなくなって急遽CMをはさんだ程!

ただ、このやりとりを聞いていたテレビのプロデューサーが「これはおもしろい」と思い、テレビでやることに。

それがブレイクのきっかけになったそうです。

紳助さんは手紙に「生放送に来い」と書いてはいませんでしたが「これを出したら円広志は来るだろう」と計算していたのでしょう。

紳助さんは、円さんによくこう言っていたそうです。

「僕とあなたは会う時間は少ないけどよろしくおねがいします、とやってたら、旬は過ぎてしまう。

いきなりガーンと来なかったら、この時間でこの人の良さは出せない」

関西の大御所二人に見出されて、今の円さんの活躍があるんですね。

たかじんさんが新地でスカウトするのはオーソドックスでわかりますが、紳助さんのアプローチはかなり荒っぽい手法。

でも、それに見事に応えた円さんだったから、その後もずっと目をかけてもらったのでしょうね。

独立、重圧、そしてパニック障害〜救いはライブだった

1989年に独立して「オフィスとんで」を設立。

今までテレビの仕事は自由で楽しかったのが、事務所を一人で引っ張っていくために、お金を稼ぐ手段となっていきました。

しかし、その重圧が次第に大きくなり、過労気味に。ついにはパニック障害になってしまいます。

まだパニック障害という言葉自体、あまり知られていなかった頃。

その症状は、すべてのものが増幅され、小さい音が大きく聞こえ、悲しいことが1つあるとそれが5つぐらいに膨れ上がる。

夕方が怖くて4時ぐらいからわんわん泣き始め、奥さんの手をずっと握っていないと怖くて仕方なかったそうです。

当時、読売テレビ「あさパラ!」で共演していたハイヒールにインタビュー。リンゴが当時のことを話していました。

「私は、円さんの病気のことは知らなかったんです。

司会の私がパニック障害を聞いてしまうと、トークに気配りが見えるのを嫌がっていたって、後でスタッフから聞きました。

今でも覚えてるのが、パニック障害が一番きつい時に一緒にシベリアロケに行ったこと。

ウラジオストクからハバロフスクまで乗ったんですけど、車内が狭くて、その時の円さんはとても辛かったということを、本で拝読したりとか直接伺ったりして。

そんな思いをしていたのに一緒にロケしてくれはったんや、と思うと、本当にそれは申し訳なかった」

番組では2000年当時のロケの様子を紹介していましたが、14時間狭い車内にいながら、いつものように笑いをとる円さん。

視聴者には全くわからないように仕事をこなしていました。

でも、症状は日に日に悪化する一方で、ついに休養をとることに。

ただ、そんな中でも、ライブだけはやっていたそうです。

歩くこともできず、マネージャー二人に両腕を抱えられてステージに登場。

嫌だと言いながらもステージ出て歌ってるうちに、歌に一生懸命になり、終わったらウソみたいに治っていたそうです。

そして、また次の日には絶望してしまう。

それを何度か繰り返しているうちに、「あ、治るかもしれない」という希望の光が見え始め、病気との向き合い方が少しずつわかってきたそうです。

更に転機となったのが、2008年から帯番組 関西テレビ「ごきげんライフスタイル よ~いドン!」でメインパーソナリティーを務めていること。

「こういう病気持ってるから、寝不足になるのが怖いとか不安があったけれど、この番組は月~金みんな出てる顔が違うから、面白くてあきない。

とにかく楽しいですね。僕はこれを最後の番組にしようと思ってます」

また、これまで人生を振り返ってきて、今後の円広志をどう考えている?と問われ、

「テレビの仕事は、視聴率が悪くなって番組が終わったりしたら、おのずと仕事がなくなっていくもんやし、自分で決めるもんではない。

でも、音楽は自分で決めれるもんやと思う。

声がある限り歌は歌えるし、意志がある限り、エネルギーがある限り、死ぬまで自分でやっていこうと思う」

芸能生活38年。様々な苦難を乗り越え、今、円広志さんは他にはない「円広志」というジャンルを築きあげています。

私の中では、円さんは途切れずずっとテレビに出続けている印象がありました。

病気になって辛い思いをしたそうですが、それがきっかけで、テレビでの仕事や、音楽に対しても、本当に向き合うことができるようになったのかもしれませんね。

もともと歌唱力もトーク力もあり、病気を乗り越えたことで人間力もプラスされた円広志さん。

その生き様をたっぷり見ることができ、関西人にはたまらなく嬉しい回でした。

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